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ファルケンブルフ城跡|オランダ唯一の「丘の上の城」が900年かけて語ること

見どころ オランダ リンブルフ州 ファルケンブルフ 城・遺跡

曇り空の下、草の斜面と石積みの擁壁の上に残るファルケンブルフ城跡(2026年10月撮影)

基本情報

正式名称
Kasteelruïne Valkenburg(カステールライネ・ファルケンブルフ)
住所
Daalhemerweg 27, 6301 BJ Valkenburg aan de Geul
開場時間
毎日 10:00〜16:30(最終入場 15:45)が基本。時期によって 17:30 まで延びる日もある。12月25日・1月1日は休み
洞窟ツアー
フルウェーレングロット(ビロードの洞窟)はガイド同行のみ。所要50〜60分で、最後は城跡に出る。11月上旬〜12月下旬はクリスマスマーケット期間のため通常ツアーなし
チケット
洞窟のチケットには城跡の入場が含まれる。城跡だけの入場も可。ミュージアムカード(Museumkaart)で両方無料
支払い
洞窟の窓口は現金・カード可、城跡の窓口はカードのみ
服装
洞窟内は年間を通じて約12℃。夏でも羽織るものを
アクセス
ファルケンブルフ駅から徒歩約10分。城跡のエレベーターは町の中心側、洞窟の入口は丘の反対側(Daalhemerweg 沿い)にある。車は Parking 't Centrum(Daalhemerweg 8)など有料駐車場へ
バリアフリー
洞窟は車いす・ベビーカーで回れる。城跡は一部のみ

公式サイト 開場時間(公式) よくある質問(公式)

オランダと聞いて思い浮かべるのは、海より低い干拓地、風車、運河。山も丘もない国です。その国の南の端、ベルギーとドイツに挟まれた南リンブルフにだけ、なだらかな丘陵があります。ファルケンブルフ城跡は、その丘の上に建てられたオランダで唯一の「丘の上の城(hoogteburcht)」です。

いま残っているのは、崩れた壁と塔の根元、アーチの一部だけ。それでも、ここに立つと「オランダらしくないオランダ」の歴史が一度に見えてきます。ドイツ皇帝と争った地方領主、ブラバント公国への併合、スペインとの八十年戦争、そしてフランスの手に渡すくらいなら、と自国の総督が爆破した結末まで。900年分の出来事が、黄色っぽい石の上に積み重なっています。

まず押さえたい3つのポイント

  • オランダ唯一の丘城:平地の国で、天然の高台に築かれた城はここだけ。城跡から見下ろす町と谷の眺めそのものが、この国では珍しい景色です。
  • 城は「自国の軍」が壊した:最後の破壊は敵の攻撃ではありません。1672年12月、フランス軍に再び使われないよう、オラニエ公ウィレム3世の命令でネーデルラント共和国の軍が爆破しました。
  • 地下で洞窟とつながっている:城の下の泥灰岩(マール)を掘った坑道「フルウェーレングロット」と、包囲戦のときに掘られた抜け道でつながっています。観光ルートも洞窟から地下を通って城跡に出る順番です。

城が建った場所:ヘーウンスベルフの丘と「マール」という石

城が建つ丘はヘーウンスベルフ(Heunsberg)と呼ばれます。南を流れる小さな川ヘウル(Geul)が削った谷の縁で、町はこの丘のふもとに育ちました。町の正式名称「Valkenburg aan de Geul(ヘウル川のほとりのファルケンブルフ)」は、この地形をそのまま表しています。

町の目抜き通りグローテストラートの先、丘の上に見える城跡
町の目抜き通りグローテストラートから見上げた城跡。町が丘のふもとに育ったことがよくわかる。 写真:Kleon3 / CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

この丘を作っているのが泥灰岩(mergel、英語で marl)です。約7000万年前、このあたりが浅い海だったころに積もった石灰質の層で、地質学では「マーストリヒト層」と呼ばれます。マールは掘りたては柔らかく、ノコギリで切り出せるほどなのに、空気に触れると表面が固くなります。加工しやすく軽い建材として、南リンブルフの教会や家、そしてこの城にも使われました。

城跡の壁がほかのオランダの古い建物(赤レンガが多い)と違って黄色がかって見えるのは、このマールでできているからです。町を歩くと、民家や駅舎まで同じ色の石で建っていることに気づきます。

青空の下に残るマールの城壁とアーチ形の窓
黄色みを帯びたマールの壁。アーチ窓の残る部分が、14世紀に建て直された居館のあたり。 写真:Kasteelruïne & Fluweelengrot 公式サイト

石を掘った跡が洞窟になった

マールを切り出した跡は、丘の中に縦横に延びる坑道として残りました。これがファルケンブルフの名物「洞窟(grot)」です。城の下にあるフルウェーレングロット(Fluweelengrot、ビロードの洞窟)は全長5km以上。採掘は11世紀ごろに始まり、多くの通路は14〜16世紀の石工たちが掘ったものだと考えられています。

名前の由来ははっきりしていません。17世紀の所有者 Andreas Flouin の名が転じたという説と、ビロードのように柔らかい毛を持つテン(地元で「fluwientje」と呼ばれた)から来たという説があります。

電球に照らされたフルウェーレングロットの細い坑道
フルウェーレングロットの坑道。壁に残る細かな筋は、マールを切り出した道具の跡。 写真:P.J.L Laurens / CC BY 3.0(Wikimedia Commons)

900年の歴史を年表でたどる

時期 出来事
1075年ごろ ハインスベルフ家のホーゼヴェイン1世が、丘の上に最初の城(12×18mほどの四角い塔)を建てたとされる
1122年 神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世の命を受けた軍が塔を破壊
1122年以降 ホーゼヴェイン2世が同じ場所に、マールで16角形の塔を再建。ふもとに町ができ始める
1141年 皇帝との争いで、城と町が再び破壊される
1200年ごろ 10角形の塔に建て替え。木柵は石の防壁に
1250年ごろ 現在の地下牢、礼拝堂の一部、騎士の間の前身ができる
14世紀前半 防壁と2つの丸塔に囲まれた、2棟の大きな居館へと拡張
1329年 ブラバント公ヤン3世との戦いで城と防備の大半が破壊。のちにディルク4世が居館をゴシック様式で再建
1352年 ファルケンブルフ家が断絶。ブラバント公国が領地を買い取り、代官(drossaard)が城に住む
1465年 代官ディルク・ファン・パラントのもと、リエージュ勢の包囲を退ける
1644年 八十年戦争のさなか、ネーデルラント共和国軍が城を最終的に奪取。防壁の一部を取り壊す
1672年5月26日 「災厄の年」。マーストリヒトを狙うフランス軍が城を占領
1672年12月10日 共和国軍が奪還。総督ウィレム3世の命令で城を火薬で爆破し、要塞としての役目を終わらせる
1773年 町の大火のあと、住民が城跡を石切り場として使い、北側の壁などが失われる
1798年 フランス統治下で、城跡と丘が国有財産として売却される
1894年ごろ 建築家ピエール・カイペルスが修復・部分復元の計画を描く(実現せず)
1924年 現在の所有者である財団(Stichting Kasteel van Valkenburg)が設立される
1937年 修復工事中に、城の下の地下道が見つかる
2013年 ガラス張りの入口棟、エレベーター、レストランが完成

年表の日付と人名は、主にオランダ語版ウィキペディアと公式サイトの記述によります。古い時代ほど資料によって年がずれる点は承知のうえで読んでください。

防壁と丸い塔に囲まれた丘の上に、屋根の付いた居館が建つ城の模型
洞窟(フルウェーレングロット)の入口前、ガラス張りの小屋に展示されている、爆破される前の城を再現した模型。二重の防壁と丸い塔に囲まれた丘の上に、2棟の居館が建っている。年表の「14世紀前半」以降の姿にあたる。いま残っているのは、この居館と防壁のごく一部だけ。 写真:2026年10月撮影

歴史の背景を深掘りする

皇帝とわたり合った地方領主

12世紀のファルケンブルフ領主は、神聖ローマ帝国の中でマース川とライン川のあいだを押さえる中小の領主の一つでした。城が皇帝の軍に2度も壊されているのは、彼らが皇帝に盾つく側についたことがあったからです。それでも領主家は生き延び、ホーゼヴェイン3世の代には皇帝から伯の称号を受け、フリードリヒ1世(バルバロッサ)とも良い関係を築いたと伝わります。

この地域はいまでこそ「オランダの南端」ですが、中世には「オランダ」という枠組みはありません。ファルケンブルフは、ケルン・アーヘン・リエージュ・ブラバントといったまわりの勢力のあいだでどちらにつくかを選び続ける場所でした。城が何度も壊されては建て直されたのは、その選択の結果でもあります。

ブラバント公国と「オーファーマース地方」

1288年のヴォーリンゲンの戦いで、ブラバント公ヤン1世はリンブルフ公国の相続をめぐる争いに勝ちます。このときファルケンブルフ領主ワルラム(「赤毛のワルラム」と呼ばれたワルラム・デ・ロッセ)は負けた側にいました。その後もブラバントとの緊張は続き、1329年にはヤン3世の攻撃で城が大きく壊されます。

1352年に領主家が絶えると、ファルケンブルフはブラバント公国のものになりました。ファルケンブルフ、ダールヘム、ヘルトーヘンラーデの3つの領地は、ブラバントから見てマース川の向こう側にあることから「オーファーマース地方(Landen van Overmaas)」とまとめて呼ばれます。城には領主ではなく公国の代官が住むようになり、「領主の館」から「国境の要塞」へと性格が変わりました。

八十年戦争:大砲の時代に取り残された城

16世紀後半、ネーデルラントの北部諸州はスペイン王に反旗を翻し、八十年戦争(1568〜1648年)が始まります。南の端にあるファルケンブルフは、スペイン側と共和国側が奪い合う最前線になりました。

中世の城は、弓と投石に耐えるように造られています。高い壁は大砲や臼砲の時代には、むしろ狙いやすい的でした。このあいだの戦闘で塔は崩れ、屋根は焼け、修理しても次の戦争で壊れることを繰り返します。1644年に共和国軍が城を最終的に手に入れると、まだ使える防壁の一部まで取り壊されました。戦後の1661年には、オーファーマース地方はスペインとネーデルラント共和国のあいだで分割され、ファルケンブルフの大部分は共和国側に入ります。

丘の斜面に沿って残る、上部が崩れた防壁と塔の基部
丘の斜面に沿って残る外側の防壁と塔の基部。上の部分は崩れ落ち、低い石積みだけが残っている。 写真:2026年10月撮影

1672年「災厄の年」と、自らの手で爆破した城

オランダ史で1672年は「災厄の年(Rampjaar)」と呼ばれます。フランス、イングランド、ミュンスター司教、ケルン大司教が同時にネーデルラント共和国に攻め込み、国が滅びかけた年です。「民は狼狽し、政府は混乱し、国は救いようがない」という言い回しが残るほどでした。

フランス王ルイ14世の狙いの一つが、マース川の要衝マーストリヒトです。ファルケンブルフはそこから東へわずか十数km。1672年5月、フランス軍は城を占領し、マーストリヒト攻略の足がかりにしました。

同年12月、共和国軍がファルケンブルフを取り返します。ここで総督に就いたばかりのオラニエ公ウィレム3世(のちのイングランド王ウィリアム3世)が下した判断は、城を守ることではなく爆破することでした。もう一度フランスに奪われれば、敵の拠点として使われてしまう。守りきる兵力もない。それなら要塞としての価値ごと消してしまう。こうして丘の上の城は、自分の国の軍によって吹き飛ばされ、二度と建て直されませんでした。

オラニエ公ウィレム3世の肖像画
オラニエ公ウィレム3世。城の爆破を命じたのは22歳のとき。のちにイングランド王ウィリアム3世となる(ウィレム・ウィッシング画、1684〜85年ごろ、マウリッツハイス美術館蔵)。 写真:Willem Wissing / パブリックドメイン(Wikimedia Commons)

城跡に立って崩れ方を見ると、自然に朽ちた遺跡とはどこか違います。壁が途中で断ち切られたように終わっているところがあるのは、この爆破と、その後に石材として持ち去られた跡です。ページ冒頭の写真でも、居館の壁の右端が階段のようにギザギザに途切れたまま残っています。

四角い穴が規則正しく並ぶ、床も屋根も失われた居館の壁
床も屋根も失われ、壁だけが残った居館の一室。壁に並ぶ四角い穴は、床や天井の梁を差し込んでいた跡と考えられ、かつてここが何層もの建物だったことがわかる。 写真:2026年10月撮影

城跡から「観光の町」へ

要塞でなくなった城跡は、18世紀には町の大火で家を失った住民の石切り場になり、19世紀には貴族の私有地として柵で囲われます。風向きが変わるのは19世紀半ば。1853年にマーストリヒトとアーヘンを結ぶ鉄道が通り、ファルケンブルフに駅ができました。マールで造られた城のような駅舎は、現役のものとしてはオランダで最も古い駅舎の一つです。

鉄道で来られるようになると、丘と洞窟と城跡のあるこの町は、平地に住むオランダ人にとっての「山の保養地」になります。城跡も保存と修復の対象になり、1924年に財団が設立されて現在に至ります。いまのファルケンブルフは、洞窟、ケーブルカー、カジノ、クリスマスマーケットが並ぶオランダ屈指の観光の町です。その出発点に、この城跡があります。

町の公園から見た城跡と、奥の丘に立つヴィルヘルミナ塔
町なかの公園(デン・ハルダー公園)から見た城跡。左奥の丘の上には、観光の町になってから建てられた展望塔ヴィルヘルミナ塔が見える。 写真:Jiří Komárek / CC BY-SA 4.0(Wikimedia Commons)

観光地になった城跡には、もう一つの「記録」が残っています。城跡の壁を近くで見ると、訪れた人が刻んだ名前やイニシャル、年号がびっしり並んでいます。柔らかいマールは、ナイフ一本で文字が彫れてしまうからです。中には「1911」のように20世紀初めの年号も読み取れ、鉄道で来た観光客たちがこの丘を歩いていたことがわかります。いまでは城跡そのものの歴史の一部ですが、もちろん新しく刻むのはやめましょう。

ゴシックの尖頭アーチの下に窓が開き、周りの壁に名前や年号が刻まれている
居館に残るゴシックの尖頭アーチ。窓の周りの壁には、訪れた人々が刻んだ名前や年号が一面に残っている。 写真:2026年10月撮影

洞窟が見てきた暮らしと戦争

フルウェーレングロットは、ただの採石跡ではありません。何百年にもわたって、町の人の避難所であり、隠れ家であり、祈りの場でした。

  • フランス時代の礼拝堂:18世紀末、フランス革命軍の支配下で教会が使えなくなると、人々は洞窟の中に礼拝堂を設け、司祭が日曜ミサや洗礼を行いました。いまも洞窟内に礼拝堂が残っています。
  • 包囲戦の坑道:1937年の工事で見つかった通路の中には、城を攻める側が城の真下まで掘り進めた坑道と、城の側からそれを迎え撃つために掘った対抗坑道が含まれていました。
  • 第二次世界大戦:1944年9月、町の周辺で戦闘があった6日間、約400人(現地の洞窟ツアーの解説書では約600人)の住民が洞窟に避難しました。解放後は主にアメリカ兵のための野戦病院・休憩所として使われ、壁には兵士たちのサインやシルエットがいまも残っています。
  • 壁画と彫刻:柔らかいマールの壁には、何世紀にもわたって描かれた絵や刻まれた文字、彫刻があります。ガイドの懐中電灯に照らされて浮かび上がるのが、洞窟ツアーのいちばんの見せ場です。
洞窟の壁に書かれた、宣誓を拒んだ司祭の名簿
フランス時代の記憶。洞窟の壁に残る「1797年9月5日の宣誓を拒んだファルケンブルフ郡のカトリック司祭の一覧」。フランスの総裁政府は聖職者に「王政への憎しみ」の宣誓を求め、拒んだ司祭は追われた。左下には「イル・ド・レ島へ追放」とある。一覧の筆頭にある「Servatius Widdershoven, Pastoor van Valkenburg(ファルケンブルフの主任司祭)」は、洞窟ツアーで、洞窟に隠れてミサを続けたと語られる司祭その人。 写真:Romaine / CC0(Wikimedia Commons)
マールの壁を彫って作られた洞窟内の告解室
洞窟内の礼拝堂にある告解室。マールの壁をそのまま彫り込んで作られている。 写真:P.J.L Laurens / CC BY 3.0(Wikimedia Commons)
ガイドがランプで洞窟の壁画を照らしている様子
ガイドがランプで照らすと、壁一面の絵が浮かび上がる。 写真:Kasteelruïne & Fluweelengrot 公式サイト
洞窟の壁に彫られた大きな彫刻の前で説明を聞くツアー客
壁から突き出すように彫られた大きな彫刻。ツアーではこうした作品の前で足を止めて説明がある。 写真:Kasteelruïne & Fluweelengrot 公式サイト

洞窟ツアーの番号ガイド(日本語)

フルウェーレングロットのガイドツアーでは、洞窟内の壁画や遺構に番号が振られていて、番号ごとの解説書(英語など)を見ながら回ります。ここでは、その解説書を日本語にしたものを番号順に載せます。ツアー中にスマホで開いて、ガイドの話と照らし合わせながら読むことを想定しています。手元の解説書には2番の項目がなかったので、1番の次は3番です。

壁に「Kasteelruïne」「Fluweelengrot」のロゴが浮き彫りにされた洞窟の入口の広間を、ツアー客が奥へ進んでいく
ツアーの始まり。入口の広間の壁には「Kasteelruïne & Fluweelengrot」のロゴがマールに浮き彫りにされている。ここからガイドについて奥へ進む。 写真:2026年10月撮影

1〜10番:採掘の跡、伝説、戦争

1. 石材採掘職人(Block Cutter)

重労働の合間に休憩している石材採掘職人の絵です。当時、石材の切り出しはすべて手作業でした。職人の周りには、仕事に欠かせない道具が描かれています。ハンマー、ノミ、ノコギリ、くさび、そしてオイルランプです。

左側にはフルウェーレングロットの地図があります。ただ、熟練した職人は、こうした地図がなくても洞窟の中を自由に行き来できました。絵の中にはコウモリも描かれています。多くのコウモリは冬になると洞窟の中で冬眠します。

3. 石材採掘職人の作業場(Block Cutter's Workstation)

洞窟からマールの石材を切り出す作業は、次の順に進みました。

  1. ハンマーとノミで、切り出す石材の上部に高さ約10cm、奥行き約90cmの溝を掘る
  2. ノコギリで石材の左右を切り離す
  3. 底面はノコギリで切るか、折って切り離す
  4. 最初の石材はまだ奥の岩盤とつながっているので、周りの隙間にくさびを何本も打ち込み、圧力をかけて岩盤から外す
  5. 石材の前に落ちた切りくずを片づけ、ハンマーとノミで慎重に取り外す

洞窟の中での採掘は、ほとんどが冬に行われました。夜の霜が降りなくなる5月15日以降に、切り出した石材を地上へ運び出し、住宅や教会、城の建設に使いました。

「3」の番号札の横に描かれた、腰をかがめて石材を切る職人の壁画と、途中まで切り出された石材
3番の作業場。壁に描かれた職人の右には、上と左右を切られ、まだ奥の岩盤とつながったままの石材が残されている。説明にある「最初の石材」の状態がそのまま見られる。 写真:2026年10月撮影
石材の上に並べられたノミや木づち、くさびと、壁に立てかけられたノコギリ、ハンマーを振るう職人の壁画
作業場に並べられた道具。手前の石の上にくさびや木づち、奥の壁際に大きなノコギリ。右の壁画の職人はハンマーを振り上げ、溝を掘っている。 写真:2026年10月撮影

4. 兄弟殺し(Fratricide)

1853年、ファルケンブルフで初めての鉄道駅の完成が祝われました。翌1854年からは、ホテルがキノコのように次々と建ち始めます。観光客に洞窟をより魅力的に見せるため、洞窟の壁にはさまざまな絵が描かれました。壁の表面を滑らかに整えて木炭で黒く塗り、その後、鋭い道具で表面を削って絵を浮かび上がらせる技法です。

この絵は、クレーフェの美しい娘アレクシスに恋をした2人の兄弟、ワルラムとレギナルドの物語です。続きは洞窟のさらに奥(7番)で紹介されます。

5. ヴァンドーム伯爵(The Count of Vendôme)

ファルケンブルフの領主ワルラム・デ・ロッセと、ヴァンドーム伯爵の戦いの絵です。伝説では、争いの原因は遺産相続でした。当時の慣習に従い、争いは決闘で決着がつけられました。

この絵が特別なのは、赤い色が使われていることです。赤の顔料はアカネという植物の根から作られていましたが、この植物は採りすぎによって1900年ごろまでにほぼ姿を消しました。

6. 1600年ごろのファルケンブルフ城(Valkenburg Castle circa 1600)

いまこの地域の博物館に展示されている絵画をもとに描かれた絵です。1672年に最終的に破壊される前の城の姿をよく表しています。

当時、城はフランス王ルイ14世の支配下にありました。マーストリヒトに軍とともに滞在していた総督ウィレム3世は、この城を脅威とみて攻め落とし、1672年12月10日に火薬で爆破しました。その後、城が建て直されることはありませんでした。1773年には、大火で焼けた家々を建て直すため、城跡から石が持ち出されています。

7. ワルラムの花嫁(Walram's Bride)

4番の兄弟殺しの、悲劇的な結末の絵です。クレーフェのアレクシスはワルラムとの結婚を選び、式はファルケンブルフ城で挙げられました。祝宴のあと、2人は新婚の寝室へ向かいます。そこで待ち伏せていたのが、ワルラムの兄弟レギナルドでした。アレクシスが自分ではなく兄弟を選んだことに嫉妬したレギナルドは、初夜を迎える前に2人を殺してしまいます。アレクシスの亡骸は故郷のクレーフェ(ドイツ)に戻され、一族の墓に葬られました。

8. ハイノサウルス(Hainosaurus)

彫刻家シッフェレールスによる半立体の彫刻です。1770年、マーストリヒト近くのシント・ピーテルスベルフの地下で、全長110cmのモササウルス(巨大な海の爬虫類)の顎の化石が見つかったことを記念しています。

1794年にマーストリヒトがフランス軍に占領されると、この化石はフランス軍に接収され、すぐにパリへ運ばれました。いまはパリの国立自然史博物館にあります。ただし伝説では、フランス軍は奪ったのではなく、マーストリヒト市から赤ワイン600本と引き換えに手に入れたとも伝えられています。

「8」の番号札と「HAINOSAURUS」の文字の横で、マールの壁から半身を乗り出す長い顎の爬虫類の彫刻
8番のハイノサウルス。マールの壁から半身を乗り出すように彫られ、左上に名前、左下に番号札「8」が刻まれている。ガイドがランプを当てると、ギョロリとした目が浮かび上がる。 写真:2026年10月撮影

9. 古い井戸(Old Well)

いま歩いているのは、かつて農場で、のちにキャンプ場になった土地の真下です。この場所には水がなかったので、深い井戸を掘って水を得ていました。その井戸に、洞窟の通路がたまたまつながってしまったのです。井戸を見上げると、いま地表からどれだけ深いところにいるのかがわかります。

洞窟の天井に開いた円筒形の井戸を真下から見上げたところ
9番の古い井戸を真下から見上げたところ。青く照らされた円筒の先が地上につながっている。 写真:2026年10月撮影

10. 1944年9月(September 1944)

1944年9月、アメリカ軍が南リンブルフに進軍しました。多くの地域にとって、それは第二次世界大戦の終わりを意味しました。ファルケンブルフ自体は戦争中それほど大きな被害を受けませんでしたが、9月17日の解放までの最後の6日間は激しい戦闘になりました。

アメリカ軍はヘウル川の南側、ドイツ軍は北側に陣取りました。ドイツ軍はヘウル川に架かる橋をすべて爆破し、アメリカ軍の進軍を遅らせました。この6日間、住民たちは町にいくつもある洞窟に避難しました。フルウェーレングロットには、約600人が身を寄せていました。

11〜16番:シルエット、礼拝堂、脱出路

11. シルエット・横顔の肖像(Silhouettes / Head Profiles)

ファルケンブルフが解放されたあと、アメリカ軍はベルリンへ向けて進軍を続けました。前線から数日の休暇をもらった兵士の中には、ファルケンブルフに滞在してこの洞窟を訪れる人もいました。当時のガイドだったウィリー・ファン・アッケルは、そうしたアメリカ兵たちの横顔のシルエットを洞窟の壁にいくつも描き残しました。

12. 王室の肖像(Our Royal House)

1901年2月7日のオランダ女王ウィルヘルミナとメクレンブルク=シュヴェリーン公ハインリヒの結婚を祝って描かれた絵です。中央に新郎新婦、その左右に両家の親が描かれています。左はウィレム3世国王とエンマ王妃、右はメクレンブルク=シュヴェリーン大公夫妻です。

13. 礼拝堂(Chapel)

1794年、南リンブルフはフランス共和国の一部になりました。フランスの新しい法律の一つが、すべての国民に王政との関係を断つ宣誓を義務づけるものでした。この法律やほかの規制は、カトリック教会に大きな打撃を与えます。宣誓を拒んだ司祭は司祭としての務めを禁じられ、多くが逮捕・投獄されました。務めを続けようとする司祭は、ひそかに動くしかありませんでした。

そこで洞窟が隠れ家になります。ファルケンブルフの司祭たちは地下に潜り、セルヴァティウス・ヴィデルスホーフェン司祭のもとで活動を続けました。伝説では、この司祭は3年間、この洞窟に身を隠していたといわれます(洞窟の壁に残る「宣誓を拒んだ司祭の一覧」の筆頭にある名前です)。フランス時代のあと、礼拝堂はさらに整えられ、いまの姿になりました。

礼拝堂のあたりの壁には、鍵と司教杖を持った聖人の絵も描かれています。マーストリヒトの守護聖人、聖セルヴァティウス(オランダ語で Sint-Servaas)です。4世紀にトンゲレン(いまのベルギー)の司教を務め、聖ペトロから授かったという銀の鍵を持つ姿で描かれます。洞窟で信仰を守った司祭セルヴァティウス・ヴィデルスホーフェンの名前も、この聖人にちなんだものです。

黒地に浮かび上がる、鍵と司教杖を持った聖セルヴァティウスの壁画と「St. SERVATIUS」の文字
洞窟の壁に描かれた聖セルヴァティウス。黒く塗った壁を削って白く浮かび上がらせる、4番の説明にある技法と同じ見た目をしている。右下に「St. SERVATIUS」の文字。 写真:2026年10月撮影

14. メガロサウルス(Megalosaurus)

これも、ファルケンブルフ出身の彫刻家シッフェレールスによる半立体の彫刻です。

黒い壁から突き出す、大きな口と丸い目をしたメガロサウルスの彫刻
14番のメガロサウルス。8番のハイノサウルスと同じ彫刻家の作品で、黒く塗った壁から丸ごと彫り出されている。いまの恐竜の復元図とはだいぶ違う姿をしているのも面白い。 写真:2026年10月撮影

15. 洞窟での遭難(Lost in the Cave)

1993年8月、2人の少年が許可なく、近くのカディエル・エン・ケールにある洞窟に入りました。懐中電灯は持っていましたが、暗闇の中で出口がわからなくなり、やがて離ればなれになってしまいます。2人とも、低体温症や脱水、恐怖が重なって命を落としました。

洞窟の中がどれほど暗いのかを体験してもらうため、ここでガイドがいったんランプを消します。完全な暗闇に包まれる感覚を体験する場所です。

16. 城跡からの脱出路(Escape Routes from the Castle Ruins)

この地下通路は12〜13世紀に造られました。包囲されたときに城から逃げ出したり、食料を蓄えたり、敵の背後に回って攻撃したりするために使われていました。城が壊されたあと脱出路は使われなくなり、その存在も忘れられていきます。

1937年の春、発掘で古い階段が見つかりました。階段は城壁の下へ続いていましたが、土とがれきで完全にふさがれていました。興味を持った人たちが土砂を取り除き始め、2か月にわたる作業の末にフルウェーレングロットの内部にたどり着きます。こうして、城にあった数多くの脱出路の一つが見つかりました。いまは階段がセメントで固められ、天井も補強されています。

ツアーの終わり

これでガイドツアーは終わりです。洞窟を出たら右へ進むと、そのまま城跡を見学できます。出口は足もとが悪いので気をつけてください。

ツアーで見えてくるのは、この洞窟に重なった4つの顔です。

  • 採石場:城や教会、家々を建てるマールを切り出した場所(1〜3番)
  • 城の軍事施設:12〜13世紀に造られた、包囲に備える秘密の脱出路(16番)
  • 宗教の隠れ家:1794年以降、宣誓を拒んだ司祭がミサを続けた地下の礼拝堂(13番)
  • 戦争中の避難所:1944年9月、解放前の6日間に約600人が身を寄せ、戦後はアメリカ兵の横顔が壁に残された場所(10・11番)

ガイドの話から:ツアーで聞いた補足

ここからは、2026年10月に参加したツアーで、ガイドが実際に話してくれた内容のまとめです(録音をもとに日本語にしました)。解説書には書かれていない数字や裏話が多く、番号ガイドと合わせて読むと洞窟がぐっと立体的になります。口頭の説明なので、数字には幅があります。

石と採掘の話

5kmの迷路と、900年前の始まり

洞窟の通路は総延長5km。中は複雑な迷路になっています。面積は約1ヘクタールで、近くにある45ヘクタールもの巨大な採石場に比べると小さな部類です。約900年前に城の防御塔を建てるために石を切り出し始め、約500年前からは、ここで建築用の石が本格的に切り出されるようになりました。

冬眠するコウモリ

冬になると、コウモリが見学ルートから外れた天井の穴などで冬眠します。ツアーでは、穴の中にいる2匹をガイドが見せてくれました。翼を広げても14〜15cm、体重はわずか8〜9g(ガイドいわく「砂糖つぼより軽い」)ですが、一晩に約1,000匹の虫を食べる頼もしい存在です。

マールはどうやってできたのか

マール(石灰岩)は、約6,500万〜8,300万年前の白亜紀の終わりに、浅い海だったこの地域で、プランクトンなど小さな生き物の殻が海の底に積もってできたものです。炭酸カルシウムの純度は約97%、層の厚さは70〜100mにもなります。

1日がかりで1ブロック

石の切り出しは、まず岩盤の上下に幅10cmほどの切れ込みを入れ、切り始め用のノコギリ(opzetzaag)で刃を入れてから、大きなブロック用ノコギリ(blokzaag)で深く切っていきます。最後に壁からブロックを割り取ることから、職人は「ブロックを割る人(blokbreker)」と呼ばれました。約500kgのブロック1個を切り出すのに、丸1日かかる重労働でした。

冬の仕事と、石を乾かす数か月

作業をしたのは主に冬で、農閑期の地元の農家や、シーズンオフのガイドたちでした。洞窟の中は気温11〜12℃、湿度が高く、切り出したばかりの石はたっぷり水を含んでいます。そのまま冬の外に出すと、中の水が凍って石が割れてしまうので、冬のあいだは洞窟の中で何か月も乾かし、春になってから外へ運び出して、45×20×25cmなどの建材の大きさに切りそろえました(番号ガイド3番の「5月15日以降に運び出した」という話とつながります)。

いまも電動のチェーンソーで採掘は続いていますが、1立方メートルあたり約1,300ユーロと高価で、主に歴史的な建物の修復に使われています。

新石器時代の火打石

マールの層には、黒っぽい火打石(フリント)が混じっています。ファルケンブルフには紀元前2,500年ごろ(新石器時代)の火打石の採掘坑が7か所あり、矢じりや槍の穂先、ナイフ、針などが作られました。マッチが発明される前は、火打金と打ち合わせて火を起こす、暮らしに欠かせない道具でもありました。

壁画と城の話

120年前の壁画と、カイペルス

洞窟には、約120年前に描かれた大きな壁画が20点ほど残っています。ガイドの話では、アムステルダム国立美術館やアムステルダム中央駅を設計した建築家ピエール・カイペルスがこの洞窟を所有していた時期に、観光客を楽しませるために画家デン・ハルトフ(Den Hartog)に描かせたものだそうです(カイペルスは、城跡の修復計画も描いた人物です)。

湿った石灰岩にはペンキが乗らないので、壁に木炭を塗り、鋭い道具で削って絵を浮かび上がらせました(番号ガイド4番の技法)。大きな作品には8か月以上かかったといいます。赤はアカネの根の色素です。

赤いライオンを掲げた騎士ワルラム

壁画に描かれた騎士ワルラム(約750年前)は、ガイドによると、いまもリンブルフ州の旗や路線バス(Arriva)に使われている「赤いライオン(リンブルフのライオン)」を最初に掲げた領主だそうです。

城の最期

壁画のファルケンブルフ城は、オランダで唯一の丘の上の城です。1672年にフランス軍に占領されたあと、軍事上の脅威を取り除くため、総督ウィレム3世が爆破しました。残った石は18世紀以降、町の人の家の建材として使われていきます(年表の1773年の大火の話です)。

モササウルスと、地下25mの井戸

モササウルスは、白亜紀の海にいた体長12〜18mの巨大な爬虫類です。洞窟の像(番号ガイド8番のハイノサウルスもその仲間)は1900年ごろに作られたもので、足の形などは当時の知識で復元されているため、いまの姿とは違うそうです。マーストリヒトの自然史博物館(Natuurhistorisch Museum Maastricht)には、ほぼ全身がそろった体長約12mの骨格「ベール(Bèr)」が展示されています。

ツアーの最深部は地下25m、頭の上に25mの岩盤がある場所です。ここは、さらに10m下の地下水から水をくみ上げる井戸として使われていました(番号ガイド9番の古い井戸)。

戦争と信仰の話

1944年9月、洞窟での避難生活

1944年9月13日〜19日の解放をめぐる戦闘のあいだ、地上の激しい戦いを逃れて、地元の住民400〜600人がこの洞窟に避難しました。気温11〜12℃で湿度が高く、煙が出るので火も焚けません。持ってきたパンは3〜4日でカビが生えてしまう、厳しい環境だったそうです。

アメリカ兵のサインと、マルグラーテンの墓地

壁には、当時生後4か月半の赤ちゃんとしてここに避難していたマックス・ランペさんが、後年家族と訪れたときに残した言葉があります。ガイドによると、洞窟で手当てを受けたアメリカ兵の署名も、約3,000人分刻まれているそうです。当時のガイドが木炭で描いたアメリカ兵の横顔(番号ガイド11番)も、この近くに残っています。

近くのマルグラーテンにあるアメリカ軍墓地には、約8,300人のアメリカ兵が眠っています。そのすべての墓が地元の人によって「養子縁組」され、里親のように花を供え、手入れされ続けています。

3年間の秘密のミサ

1794年のフランス軍の侵攻でカトリックのミサが禁じられると、地元の人々は3年にわたってこの地下に集まり、ひそかにミサを続けました。地下の礼拝堂には、当時の祭壇や、近くの村ハウトヘムの聖人、聖ヘルラッハの絵、すべてを見通す「神の目(プロビデンスの目)」などが残っています(番号ガイド13番)。

大きなトカゲのようなメガロサウルス

メガロサウルスの壁画(番号ガイド14番の彫刻)は、当時の知識で描かれたため、大きなトカゲのような姿をしています。ガイドは「最古の肉食恐竜」と紹介していましたが、正確には、1824年に恐竜として初めて学名がつけられた種類です。

暗闇と抜け道

10秒間の完全な暗闇

ガイドが10秒間明かりを消すと、自分の手さえ見えない、本当の暗闇になります。約30年前、マーストリヒト近くの洞窟で14歳と17歳の少年2人が、明かりが壊れて迷い込み、20日後に遺体で見つかった事故が紹介されます(番号ガイド15番)。明かりなしで洞窟をさまようことがどれほど危険か、身をもってわかる時間です。

55段の階段で、騎士の時代の抜け道へ

最後は約55段の階段を上りながら、700〜800年前の騎士の時代に、攻撃や避難のために使われた狭い隠し通路を見ていきます(番号ガイド16番)。そのまま城跡の地上に出て、ツアーは終わりです。

ガイドはボランティアで案内していることに触れ、最後にリンブルフの方言で「ファルケンブルフで良い一日を。地元のワインやビール、名物のタルト、フライ(vlaai)も楽しんでね」と送り出してくれました。

見どころのポイント

1. 洞窟から地下道を抜けて城跡に出る

いちばんおすすめの回り方は、フルウェーレングロットのガイドツアーから入り、地下の抜け道を通って城跡に出る順番です。チケットも洞窟側が城跡込みになっています。暗く涼しい坑道を歩いたあと、急に光の中に出て町を見下ろす。城を守った人と攻めた人が実際に使った道を、そのままの順でたどる体験になります。ガイドはオランダ語中心のことが多いので、英語の回があるかを窓口で確認しておくと安心です。

マールの岩肌に開いたフルウェーレングロットの入口
フルウェーレングロットの入口。ここから地下に入り、城跡に抜ける。 写真:Romaine / CC0(Wikimedia Commons)

城跡のエレベーターから洞窟の入口へ

洞窟の入口は、城跡のエレベーター(ガラス張りの入口棟)とは丘を挟んだ反対側にあります。エレベーターは町の中心側(北、グローテストラート寄り)、洞窟の入口と切符売り場は丘の南側、ダールヘメルウェフ(Daalhemerweg)沿いです。直線では200mほどですが、丘を回り込んで歩く必要があり、エレベーターの前から入口は見えません。下の地図で位置関係をつかんでおくと迷いません(Google マップで徒歩ルートを見る)。

オレンジがフルウェーレングロットの入口と切符売り場、紺が城跡のエレベーター。位置は OpenStreetMap のデータによる。
FLUWEELENGROT と書かれた切符売り場の建物と、岩肌に開いた洞窟の入口、手前のガラス張りの小屋
洞窟の入口前の広場。右の「FLUWEELENGROT」の建物が切符売り場で、その左奥、岩肌に開いた穴が洞窟の入口。手前のガラス張りの小屋には、年表の項で紹介した城の模型が展示されている。この広場が見えたら到着。 写真:2026年10月撮影

2. 騎士の間(Ridderzaal)

城跡の中で最も「部屋」としての形が残っている場所です。ゴシック様式のヴォールト(アーチ形の天井)を柱が支えていた跡が見られます。14世紀にディルク4世が再建した居館の名残で、ここで領主や代官が客を迎えました。

古い写真に写る騎士の間の崩れた壁
古い写真に写る騎士の間。1920年代に補強工事が入る前の姿(アムステルダム国立美術館蔵)。 写真:Rijksmuseum / CC0(Wikimedia Commons)
居館の跡に残るゴシックのアーチと、奥の暗い部屋へ下りる階段
いまの居館の跡。天井を支えていたゴシックのアーチが壁から立ち上がり、階段の奥にはヴォールト天井の残る暗い部屋が続く。 写真:2026年10月撮影

3. 礼拝堂と地下牢

13世紀ごろの古い部分です。礼拝堂では城の住人のために毎日ミサが行われていました。地下牢(putkamer、井戸のように上から下ろす牢)は、城の中で最も古い時代の造りが残る場所の一つです。

礼拝堂の跡には、壁に3つ並んだ尖頭アーチと「KAPEL(礼拝堂)」の小さな札が残っています。見上げると、壁の上に翼のある人物が剣を振り上げて竜を踏みつける黒いシルエットの像が立っています。竜を討つ翼の戦士は、キリスト教美術で大天使ミカエルを表す図像です。城跡のいちばん高い段に立つ目印で、上段の写真や、門の復元図の案内板にも同じ像が写っています。

礼拝堂の跡に並ぶ3つの尖頭アーチと、壁の上に立つ竜を討つ翼の戦士の像
礼拝堂の跡。中央のアーチに「KAPEL」の札が見える。壁の上の像は、竜を討つ大天使ミカエルの姿。 写真:2026年10月撮影

4. ドウィンゲルと城門、跳ね橋

ドウィンゲル(Dwingel)は、城門へ向かう掘り下げられた通路です。両側を壁に挟まれ、上から攻撃できる構造になっています。城を攻める側から見ると「ここを通らされる」ことの怖さがよくわかります。

ツタに覆われたマールの岩壁が続くドウィンゲル
ドウィンゲルの岩壁。丘のマールを削って通路を作ったことが、むき出しの岩肌からわかる。 写真:Romaine / CC0(Wikimedia Commons)

城の中に入るには、さらに門をいくつも抜ける必要がありました。いまは失われた最後の2つが、跳ね橋の門(valbrugpoort)と落とし格子の門(valhekpoort)です。現地の案内板によると、跳ね橋は橋の下に釣り合いのおもりが仕込まれていて、少ない力で引き上げられました。包囲されたときや危険が迫ったときは、橋を上げるだけで城への道を完全に閉ざせたわけです。

いまは跳ね橋のあった場所に鉄格子の橋が架かっています。橋の下には深い掘り込みがあり、石には橋の軸を受けた溝がいまも残っています。渡るときに足もとをのぞいてみてください。

跳ね橋のあった場所に架けられた鉄格子の橋と、その先に続く石畳の坂道
跳ね橋のあった場所に架かる鉄格子の橋。右手の案内板(8番)が跳ね橋の仕組みを説明している。 写真:2026年10月撮影
失われた跳ね橋の門と落とし格子の門を、残った壁に重ねて描いた復元図の案内板
橋のたもとにある案内板。失われた2つの門を、いま残る壁に重ねて描き起こしたもの。上の図は左から、跳ね橋の門・らせん階段の塔・一段低い町側からの入口・落とし格子と扉の門。下の図は、跳ね橋が閉じた状態と開いた状態。 図:van Roosmalen van Gessel architecten(デルフト)/写真:2026年10月撮影

5. 城跡からの眺め

丘の上からは、ヘウル川の谷に沿って広がる町並み、マールの家々、まわりの丘陵が一望できます。平らなオランダの国土を思い浮かべながら見ると、この景色がこの国でどれだけ特別かがわかります。夕方の光がマールの壁を黄金色に染める時間帯が特にきれいです。

城跡の小道から見下ろす町並みと丘陵
城跡の小道から見下ろす町。教会の塔とマールの家並みの向こうに、南リンブルフの丘が続く。 写真:Kasteelruïne & Fluweelengrot 公式サイト
旗がはためく城跡の上段と、ゴシックのアーチ、手前の展望スペースのベンチと望遠鏡
城跡のいちばん高い段。左にゴシックのアーチが並び、旗の右には階段状に崩れた壁が立つ(壁の上には剣を掲げた像)。手前の展望スペースにはベンチと望遠鏡があり、ここから町を見渡せる。 写真:2026年10月撮影
鉄格子のはまった城壁の窓から見下ろす町の家並みと庭
鉄格子のはまった城壁の窓から見下ろす町。窓の縁のマールには、風雨に削られた小さな穴が無数に開いている。 写真:2026年10月撮影

6. クリスマスシーズンの洞窟マーケット

11月中旬から12月にかけて、フルウェーレングロットは洞窟の中のクリスマスマーケットになります。ファルケンブルフは町全体が「クリスマスの町(Kerststad)」として飾られる時期で、オランダ国内からの人出がいちばん多い季節です。この期間は通常のガイドツアーが休みになるので、地下道から城跡へ抜けたい場合は時期をずらしましょう。

回り方のメモ

  • 所要時間:洞窟ツアー(50〜60分)+城跡(30〜60分)で、2時間ほど見ておくと余裕があります。
  • 組み合わせ:町の中心から城跡までは歩いてすぐ。町にはケーブルカーで上がる展望塔(ヴィルヘルミナ塔)もあり、別の高さから町と丘を見渡せます。食事は同じ町の Pub Henry VIII のような、地元の人が集まる店を選ぶと土地の空気がわかります。
  • 服装:洞窟は約12℃、城跡は坂と段差が多いので、羽織るものと歩きやすい靴を。
  • 日帰りの拠点:マーストリヒトから電車で約15分。マーストリヒトの旧市街とセットで1日の旅程にしやすい場所です。

参考にした情報源

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